サーバー室のとなりから

サーバー室のとなりから発信です

分析者による誤差(フランダース授業分析)

   久しぶりにフランダース授業分析をとりあげる。今回は分析する人が違った場合に結果がどの程度異なるかである。この分析法では15のカテゴリーを分析者が自分で判断して記録するから、判断に迷う場合も生じる。例えば、生徒の発言を単純な応答とみるか考えた応答とみるかでカテゴリーは変わる。

   長年にわたり分析してきた者と最近始めた者で同一の授業を見て分析した結果の言語比率グラフを示す。これまで常に注目してきた「教師発言率」と「生徒活動率」の誤差を比較するとプラスマイナス2%に収まることがわかる。500回を超える者でも10回程度の者でもこの程度なら本法の信頼性は高いといえよう。


 

0

最新型の自転車を、車内広告⑬

   この東武野田線車内広告シリーズも今回で一区切り、最後は前回東京五輪が開催された昭和39年の車内広告である。最新型の自転車というがポスターからそれを知るのはちょっと難しい。皇太子献上モデルも展示されていると書かれているがどんな自転車だったのだろう。

   変化の激しい時代のなかで50年前ははるかかなたという感じだが、温故知新、不易なものもあることを忘れたくない。東武野田線がアーバンパークラインになるのも変化だが、平成も26年目、いい年でありたい。

0

ギャンブル広告は定番、車内広告⑫

  競馬、競輪、ボート、オートレースなどの公営ギャンブルの広告は当時の定番ポスターだった。ここには船橋競馬(昭和29年)と宇都宮競輪(昭和31年)の広告を載せたが沿線各地で開催されるレース案内が頻繁に車内に掲示された。昔からギャンブルは人間にとって魅惑的なものであるが、はまり過ぎない心がけが大事あろう。そろそろこの前回東京五輪の頃の車内広告シリーズも終わりが近づいた。

  今週で二学期が終わる。この冬の情報活用講座は24,25日の二日間開かれる。例年通りのパワーポイントとムービーメーカーに加え、iPadの活用、新校務支援の活用講座もある。


0

今も昔もハイキング、車内広告⑪

  関東の私鉄沿線にある新緑のハイキングコースを紹介する映画鑑賞会の案内広告である。終戦後10年もたたないのにハイキングコース紹介の映画が上映されるということは世の中も落ち着きブームがすでにあったということだろう。

  丹沢、秩父、尾瀬、富士五湖、日光・・・五月の薫風に誘われて出かけようという気持ちにさせられる。伊勢丹の五月人形の文字とぴったり合うポスターである。

0

沿線の催し物ずっと、車内広告⑩

   沿線の催し物の車内広告は乗客の増加にもなるので鉄道会社もうれしいだろう。東武鉄道の今の目玉は何といっても東京スカイツリーだが世界の観光地、日光を忘れてはならない。その日光で毎年行われ、ニュースでも度々取り上げられる行事が強飯式である。

   終戦後12年しかたっていない昭和32年4月にこの車内広告が出ている。伝統行事に対する人々の思いの深さを感じる。

0

リサイクルで洋服を、車内広告⑨

   今でこそリサイクルというとエコにつながるので新しささえ感じるが、前回東京五輪の10年前、昭和29年にはこんな車内広告があった。大手のデパートが堂々とこうしてアメリカの服をリサイクル販売していたのである。

  中古服、改造服という言い方は時代を感じさせる。まだまだ国産の衣類はいいものが手に入らなかったのだろう。

0

今ではデジカメで動画だが、車内広告⑧

   今ではデジカメで簡単に動画が撮れるが、前回の東京オリンピックの頃は一般の人が動画を撮ろうとしたら8ミリフィルムをカメラにセットし、撮影後フィルムを現像し、8ミリ映写機で映すという方法しかなかった。カメラも映写機もフィルムもそろえると相当な金額になった。

  そこでメーカーは普及を図るためにこのようなコンテストを企画したのであろう。昭和32年、一等は3万円が賞金だと書いてある。

0

炭屋、油屋、今は死語、車内広告⑦

    灯油の車内広告である。灯油を炭屋、油屋でお求め下さいとある。油屋は今ではガソリンスタンドだろう。炭屋はもうないだろう。米屋が炭や練炭を扱っていた記憶があるから、炭屋は米屋に引き継がれたのかもしれない。学校の冬の暖房は石炭ストーブが主流だった頃である。

   この車内広告の掲出期限が昭和31年3月6日迄であることが中央のスタンプ印でわかる。

0

乗降人員調査のお願い、車内広告⑥

    車内広告には鉄道会社のこんなものもあった。どの駅で何人乗って、どこで何人降りるかという調査をすべく、乗車時に駅員から調査票を受け取り、下車駅で駅員に手渡した。今では自動改札になっているから乗降人員も自動的に集計され、日々の状況がつかめるようになっているのだろう。

前回の東京五輪の4年前、昭和35年当時の東武野田線は2両編成、木の床には油がしかれ、蛍光灯でない電球の照明もあったと記憶している。

0

炊飯器、いや電気釜、車内広告⑤

   前回の東京オリンピックの開会式が49年前の今日、10月10日だった。今は体育の日が第二週の月曜日になったが、それ以前は五輪開会式の10日が体育の日だった。

この開会式4年前、昭和35年の車内広告、東芝の電気釜である。 40万台突破記念セールで一等は50万円。薪を燃やして釜で炊いていたご飯、燃料が薪から電気に変わったのだから電気釜、ガスを使うとガス釜であった。

  電気の気の字が、メでなくて米になっている。また、隣のタイムスイッチの宣伝も時代を感じさせる。電子炊飯器だけでなく今ではあらゆる家電製品がマイコン制御になっている。当時は想像すらできなかった。

0

新聞が1か月150円、車内広告④

   今の新聞にカラー写真は当たり前だが、長い間、白黒のみであった。そこで、見出し文字が赤くなっただけでも目を引いた。色刷りの新聞はこうして宣伝するほどに新鮮味があった。

   1部買うと5円、1か月では150円で購読できるとある。今の20分の1以下の値段には驚く。この車内広告をのせて走った東武電車、昭和31年3月、前回の東京五輪まで8年余の頃である。


0

助けられた犬

   震災発生後、人間だけでなく動物も大きな影響を受けた。そんな中,、相馬で保護されたペットの一匹の犬を他県のボランティアの方がずっと世話をしているのを知った。犬が特に好きというわけではなかったが、骨と皮ばかりの状態を見るに見かねたという。2年たってようやく体重も増え、元気になってきた。PTSDの症状があって夜を怖がり、なかなか人になつかなかったという。犬の名を聞くと相馬で保護されたから「ソーマ」君と教えてくれた。

  相馬で唯一保護された犬、そんな犬と分かれてこの旅を終えた。ソーマ君の写真はあの消防車同様、のせずにイラストにした。ここでは触れなかったが、この地には福島第一原発の放射能汚染も重くのしかかっている。


0

水門のここまで津波が

   名取川にある水門に津波がここまできたという表示がされている。防波堤の高さをはるかに越えていて、住宅地や農地が海水に浸かった時のすさまじさを痛感させられる。今、川面は穏やかに、きれいな水が流れている。でもまたいつか自然は牙をむくのだろうか。

  ゆりあげ地区から仙台空港方面への道は大型ダンプカーがひっきりなしに行き来している。災害復旧で護岸や道路を工事する資材運搬の車両である。復興は時間もお金もかかるが、あの無人の学校ににぎやかさは戻るのだろうか。

0

写真撮影は禁止です

   名取市ゆりあげ地区にある消防署の建物もお寺の本堂同様に無人でぽつんと建っている。シャッターが開いていて中に消防自動車が一台とまっている。その車体には「写真撮影禁止」の張り紙、もちろん写真は写さなかったが、トラブルがあったのだろうか。

  近くの学校も無人、この広い住宅地が消えたのだから児童生徒もいない。小高い小さな山の上に新しい神社の屋根が銅色に輝き、唯一復興の兆しを感じた。

0

相馬から名取へ

  東日本大震災のニュースで仙台空港が津波で飲み込まれていく様子は今も生々しく記憶に残っている。その仙台空港の北、名取市ゆりあげ地区に足をのばした。相馬で見たのと同じ光景がより広大になって目に入ってきた。

   ぽつんとお寺の本堂が壊れた姿で建っている。その本堂に隣接する墓地は骨壷を収める土台だけが一面に顔を見せている。 壊れた本堂の前には首が取れた仏像や生花が並べらている。手を合わせるしかない。

  大型観光バスや語り部タクシーもゆっくり走って行く。自分も観光客?いやそんなつもりはないが・・・

0

海岸近くは目立つが

   津波では真っ先に海岸近くが被害を受けた。人間が作った建物は見る影もなく破壊され、丈夫な建物も外形をかろうじてとどめているに過ぎない。そのわきに青く葉を茂らせている松の姿にほっとする。 陸前高田の一本松によく似た姿が相馬の原釜海岸にもある。

   朝早く、数日前に完成し、鍵が渡された「明神前災害公営住宅」46戸内を歩いた。まだほとんど入居していない。平屋と2階建ての2種類、抽選だという。ここが戸建の復興住宅としては岩手・宮城・福島の3県で最初のものだ。

0

土台しか残っていない

 

   桜満開の中村神社から相馬港の方に向かう。
景勝地、松川浦に近づく,、原釜地区は一面に視界が開ける。家はなく、住宅の土台だけが残って広がっている。震災のがれきがきれいに片付いているので遠くまで見渡せる。その広さが津波の大きさを思い起こさせる。

   震災発生時から2年、何もせずただニュースでしか知ろうとしなかった自分に後ろめたさを感じる景色である。遠くの少し高い所に黒い墓石がたくさん並んでいる。震災で亡くなった方のために新しく建てたのだろう。

0

福島県相馬を訪ねて

   東日本大震災の被災地、相馬市を訪ねる機会があった。そこで感じたことを何回か綴ってみる。 写真は市の中心部、中村神社の桜である。訪ねたのは4月中旬、柏では葉桜になってしまったが、相馬は丁度満開であった。相馬といえば「野馬追」で有名だが、その一連の行事の起点がこの神社だという。

   桜を背にした石灯籠、よく見ると上部の石がずれているのがわかる。2年前の震災の証拠だろう。これが震災地相馬で最初にカメラのシャッターを切った1枚となった。

0

楽しさ率と理解率の相関

  中学校理科17単元の生徒アンケート結果から楽しさ率と理解率の相関関係を調べてみた。その結果はグラフのようになった。 傾向線をエクセルで引いてみると図のようになる。

この直線の式は 理解率=楽しさ率ー20 と表せる。

この式では、生徒の楽しさ率(5と4の割合)が100%になっても理解率(5と4の割合)は80%で頭打ちになるということである。授業の限界を示すものだろうか。


0

楽しさ・理解率は学級が違うとどうなるか

  グラフは中学1年理科の「楽しさ率」、「理解率」の単元ごとの生徒アンケート結果である。当時、6クラスを担当していた。「楽しさ率」で1クラスだけ他よりぐんと低いが、それ以外の5クラスを比べても20%位の差がある。「理解率」では6クラスで20~30%の差が見られる。同じように授業をしているが、これだけの差ができるのが現実である。

  学級差を少なくする、特に低い学級に手立てを考える。必要なことであるが、その手段としてICTは効果的だと思う。このアンケートは20年以上も前のもので、ICTなど考えられない時代のものだが、今ならば使える手段となった。
    

0