サーバー室のとなりから

2015年4月の記事一覧

「千葉県神社」碑近くに筆子碑も

   昨年度、沼南庁舎にある郷土資料室で柏市制60周年記念の企画展「小金牧」が開かれ、そこに「千葉県神社」碑が紹介されていた。千葉県が神様としてまつられた?興味がわいた。小金牧を開拓したものの,何度訴えても土地が自分たちの手に入らなかったのを県が仲介し、開拓者76人に1人に2反ずつ分けてもらえたことへの感謝碑である。12月大青田の円福寺にあるというので見に出かけた。明治14年8月建立の本物に接し身が引き締まった。

   その境内で筆子碑に出会った。25年近く前、この寺で3基のうち2基見つけたが、一つ見つけられなかったものである。「眞光法師」と刻まれた石の台座にたくさんの筆子名、正面と右側だけで25名、左側は隣の墓石に接していてわからない。1790年、寛政2年の碑である。逆に25年前見つけた2基は整理されたのか、発見できなかった。庁舎からは遠い円福寺だが・・載せる。

    
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ITA・新年度多忙のスタート

   学校への訪問はまだ始まらないが、この時期のITA(アドバイザー)は市内小中学校全児童生徒の進級処理を行なっている。学校でパソコンを使うための欠かせない準備だ。作業は単調でも3万人の更新は大変である。中には難しい漢字の児童生徒もいたり、転出入も多く苦戦している。

   来年度からは各学校のHPづくりも改善されてITAの関わりは軽くなる方向だが、今年は例年通り、各校の要請に基づき更新作業が進められている。学校に顔は出さなくてもITAは庁舎4階で奮闘している。

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宝寿院(布瀬)の筆子碑

   旧沼南町の筆子碑を訪ねる旅も最終、手賀沼を見下ろせる台地に宝寿院がある。川﨑さんの本には4基あると記されているが3基しか見つからなかった。古い順に写真を左から並べる。

   左端は「法印明秀」宝暦8年(1758)、中央は「法印宥賢」文化13年(1816)。右端は「鈴木先生」大正3年(1914)である。最も新しい碑でも100年前、左端は250年以上前の石である。今の教育と比べるのは無茶だが、250年以上も残る記念碑を建ててもらえる教育ができているだろうか。

         

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地蔵堂(布瀬)の筆子碑

   沼南庁舎からは車で15分、布瀬にある地蔵堂墓地の筆子碑を訪ねた。墓地の掃除をしているおじさんに会った。「筆子中」という墓石を探す姿にけげんな顔をされた。天保2年(1831)の筆子碑(右写真)がある墓地は代々続く地区で一番古い家だそうだ。戒名は「円鏡浄心清信士」と刻まれている。もう1基(下写真中央)は、先の碑より一回り大きく、同じく台座に筆子中とある。「孝順法師」と正面に大きく彫られ弘化2年(1845)の建立である。

   この碑を見る前に手賀にある興福院の住職墓地と旧手賀教会前にあるはずの筆子碑を探したが発見できなかった。墓が整理された時の消失したのかもしれない。


 

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福寿院(高柳)の筆子碑

   前回の高柳・善龍寺から数100mの所にある福寿院である。隣の幼稚園から園児の声がにぎやかに聞こえてくる。本堂は茅葺で趣があり、その右手に堂々と筆子碑は建っていた。

  善龍寺の筆子碑は300年以上も前の元禄期だったが、福寿院の碑は明治10年(1877年)なので台座に刻まれた多数の筆子名もはっきり読める。補教試補渡来高盛、補教試補とはどんな役だったのだろうか。

  台座の筆子名は高柳村が多いものの、塚崎村や土村の文字もある。学校ができる前、近くの村からも学びに来ていた様子がわかる。筆子たちの学習意欲は今以上に高かったのかもしれない。

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