サーバー室のとなりから

カテゴリ:庁舎近くの筆子碑探訪

小学校の前身はお寺

 庁舎の近くではないが、久しぶりに筆子碑を訪ねた。
 きっかけは野田郷土博物館で「染谷亮作と川間村」という企画展が開催されていることを沼南庁舎2階郷土資料展示室にあったパンフレットで知ったからである。筆者は初めて染谷亮作という名前を聞いた。早速、野田の郷土博物館を訪ねた。
 いろいろな業績のある人物だが、一番興味を持ったのは、川間小学校を設計したことである。この川間小に統合される前の中里小学校で学んだのが亮作であった。詳細は省くが、学校の設計、その考え方は興味がつきない。
 中里生まれの亮作、学校の前は寺子屋、その満蔵寺の筆子碑を訪ねた。墓地で亮作が習ったのではないかと想像される二代目染谷岱順の墓誌に出会った(中央写真)。
    
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会えたぞ、寺子屋のお師匠さんに


  手賀の丘の森の中に「深山平左衛門勝正」という寺子屋のお師匠さんの筆子碑がある。江戸末期から明治時代にかけて近在の子が習いに通った寺子屋のお師匠さん、明治14年に亡くなった後、習った子(筆子)たち50人近くが建てた謝恩碑である。
  そのお師匠さんの肖像画が残っていると聞いて、一度ぜひ見たいものだと思っていたが、先月末、それが実現した。明治14年、もう135年も前に亡くなった人である。今なら写真で残すだろうが、実に細密な手描き、生き生きとした表情、感動の出会いである。
  
 
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島田重礼が芳野金陵の資料に

   沼南庁舎2Fの柏市郷土資料展示室では2月28日まで「金陵 近代日本を見据えた松ヶ崎の大儒」という柏の歴史企画展が開かれている。その企画展でいただいた資料をめくって島田重礼の名を見つけた

    島田重礼の名が筆者の頭になぜあったかは、あの大青田小学部の碑文(写真)を書いた人だからである。大青田の村人はどうやって島田重礼を知り、碑文を頼めたのだろうか、とても気になっていたのである。

   多分、幕末、幕府の学問所の儒官同士だった金陵を通じて重礼に依頼するルートができたにちがいないと思い、合点がいったのである。もちろんこの推測があっているかどうかは分からないが、大青田と松ヶ崎の距離は近い。展示物の中には重礼の書いた詩文もある。

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円福寺隣には大青田小学部・碑

   大青田の円福寺に隣接して妙見神社があるが、その境内に「大青田小学部」と刻まれた大きな石碑がある。以前に述べた千葉県神社碑や筆子碑、岩本石見守碑もさることながらこの大きな碑は明治の学制発布後の様子を知るうえで貴重な教育遺産である。

   この碑の前面には長文が刻まれ、筆者の読解力では十分な把握ができないが、円福寺を借りた学校が生徒増で狭くなり、新しく明治16年に学校を建てた当時の状況がわかる。碑は明治22年(1889)3月建立である。

   神社の境内には宝暦(1750~)年間の「天神宮」もある。筆子碑と同様に筆子たちによって建てられた石宮である。柏の最北、大青田にこれだけ江戸時代からの庶民教育の歴史を知ることができる碑がまとまっていることは驚くべきことである。ぜひ訪ねてほしい。

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「千葉県神社」碑近くに筆子碑も

   昨年度、沼南庁舎にある郷土資料室で柏市制60周年記念の企画展「小金牧」が開かれ、そこに「千葉県神社」碑が紹介されていた。千葉県が神様としてまつられた?興味がわいた。小金牧を開拓したものの,何度訴えても土地が自分たちの手に入らなかったのを県が仲介し、開拓者76人に1人に2反ずつ分けてもらえたことへの感謝碑である。12月大青田の円福寺にあるというので見に出かけた。明治14年8月建立の本物に接し身が引き締まった。

   その境内で筆子碑に出会った。25年近く前、この寺で3基のうち2基見つけたが、一つ見つけられなかったものである。「眞光法師」と刻まれた石の台座にたくさんの筆子名、正面と右側だけで25名、左側は隣の墓石に接していてわからない。1790年、寛政2年の碑である。逆に25年前見つけた2基は整理されたのか、発見できなかった。庁舎からは遠い円福寺だが・・載せる。

    
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