サーバー室のとなりから

カテゴリ:庁舎近くの筆子碑探訪

宝寿院(布瀬)の筆子碑

   旧沼南町の筆子碑を訪ねる旅も最終、手賀沼を見下ろせる台地に宝寿院がある。川﨑さんの本には4基あると記されているが3基しか見つからなかった。古い順に写真を左から並べる。

   左端は「法印明秀」宝暦8年(1758)、中央は「法印宥賢」文化13年(1816)。右端は「鈴木先生」大正3年(1914)である。最も新しい碑でも100年前、左端は250年以上前の石である。今の教育と比べるのは無茶だが、250年以上も残る記念碑を建ててもらえる教育ができているだろうか。

         

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地蔵堂(布瀬)の筆子碑

   沼南庁舎からは車で15分、布瀬にある地蔵堂墓地の筆子碑を訪ねた。墓地の掃除をしているおじさんに会った。「筆子中」という墓石を探す姿にけげんな顔をされた。天保2年(1831)の筆子碑(右写真)がある墓地は代々続く地区で一番古い家だそうだ。戒名は「円鏡浄心清信士」と刻まれている。もう1基(下写真中央)は、先の碑より一回り大きく、同じく台座に筆子中とある。「孝順法師」と正面に大きく彫られ弘化2年(1845)の建立である。

   この碑を見る前に手賀にある興福院の住職墓地と旧手賀教会前にあるはずの筆子碑を探したが発見できなかった。墓が整理された時の消失したのかもしれない。


 

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福寿院(高柳)の筆子碑

   前回の高柳・善龍寺から数100mの所にある福寿院である。隣の幼稚園から園児の声がにぎやかに聞こえてくる。本堂は茅葺で趣があり、その右手に堂々と筆子碑は建っていた。

  善龍寺の筆子碑は300年以上も前の元禄期だったが、福寿院の碑は明治10年(1877年)なので台座に刻まれた多数の筆子名もはっきり読める。補教試補渡来高盛、補教試補とはどんな役だったのだろうか。

  台座の筆子名は高柳村が多いものの、塚崎村や土村の文字もある。学校ができる前、近くの村からも学びに来ていた様子がわかる。筆子たちの学習意欲は今以上に高かったのかもしれない。

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久しぶりの筆子碑(善龍寺・高柳)

   小中学校は今日が修了式、26年度の三学期が終わります。

少し前、半年ぶりに庁舎近くの筆子碑を探しに出かけた。庁舎の南西、高柳の善龍寺である。本堂前の五葉松で有名だが、筆子碑は隣接の住職墓地にあった。墓石は整理されて新しい立派な墓石が並ぶ。筆子碑はその奥にひっそりと建っていた。元禄10年(1697年)とあるので市内でも最も古いものといえよう。
古さゆえ刻まれた文字が読みにくい、川﨑さんの本の記録と照らし合わせて納得するかたちとなった。 

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手賀の丘(片山)の筆子碑

   秋の彼岸も過ぎた9月の終わりに教育研究所の何名かと手賀の丘公園に出かけた。そこにある「深山平左衛門勝正」の筆子碑を訪ねるためである。この碑は明治14年に建てられたもので台座には48人の筆子たちの名が刻まれている。高さは2メートルを超える。

   碑文に詳しく平左衛門勝正のことが記されている。師は岩井村の勝矢家から片山村深山家の養子にきた人らしい。前回取り上げた龍光院(岩井)筆子碑、勝矢義八郎の祖先が勝正なのだろうか。

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