校長室より

校長のひとり言(令和元年度)

マナーは愛より強い 身だしなみについて考える

 五木寛之氏が『大河の一滴』(幻冬舎、1998年)のなかで、C・W・ニコルさんから聞いた、極地へ探検に行ったときの話というのを紹介しているのだが、それはこんな話である。

 南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢して待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱づよく、最後まで自分を失わずに耐えつづけたか。ニコルさんに言わせると、それは必ずしも頑健な体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかったそうです。たとえば南極でテント生活をしていると、どうしても人間は無精になるし、そういうところでは体裁をかまう必要がないから、身だしなみなどということはほとんど考えなくてもいいわけです。にもかかわらず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗ってひげを剃り、一応、服装をととのえて髪をなでつけ、顔をあわせると「おはよう」とあいさつし、物を食べるときには「いただきます」と言う人もいる。こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しい生活環境のなかで最後まで弱音を吐かなかった、というわけです。
極限状態でマナーを守れること。これが人間のサバイバルにとって単なる体力以上に重要な鍵になる、というのは非常に興味深い指摘である。ヴィクトリア時代のジェントルマンたちは、ものごころもつかない頃からマナーをきびしく体に叩きこまれてきた。文字どおり、スパルタ式で叩き込まれるのである。これは世 間 体(リスペクタビリティ)を保つため、というよりもむしろ、どんな過酷な条件下でも生き残り可能な人間としての底力を育てる知恵だったのかもしれない。
 
 マナーは体力より強いばかりでなく、おそらくマナーは愛よりも強い。
 熱烈な愛情表現の交換によって結婚したカップルが意外に早く破局(しかも泥沼の)を迎え、人として最低限のマナーを守りあって暮らしているカップルが結局末永く添い遂げていることが多い身近な事例を見ながら、そう思う。
                     「スーツの神話」中野香織 著 より

 頭髪や服装を整えよう。「人は見た目で判断される」のですよ。ONとOFFの切り替えをしっかりして、学校でのジャージや制服の着こなしからしっかり確認しよう。もちろん先生方もです。挨拶や言葉遣いも社会に出てからでは、なかなか身につかないものですよ。


 

新しい体操服


次年度から体操服のデザインを一新します。かねてから「重く乾きが悪い」「男女別の首元の色の違いによるリサイクル・リユースしにくい」などとご意見をいただいておりましたので、無地で速乾性があり透けない素材のものに一新します。肩口にハーフパンツと同様のロゴが入ります。値段もこれまでのものより安い1,800円(税別)となる予定です。もちろんこれまでのものをそのままご使用いただいてもかまいません。合わせて上履きについても新しいものに変わります。こちらは製造工場の閉鎖に伴うもので学年の色分け等はそのままになります。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

初心忘るべからず

「初心忘るべからず」というと「新人のころの、あるいは初めのころの感動や純粋な気持ちを忘れずに、ひたむきに物事に取り組め」という意味でとらえている人が多いのではないでしょうか。しかし本当の意味はそうではありません。この言葉は 世阿弥の書「花鏡」で述べられた芸術論であり、 「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。①是非とも初心忘るべからず。②時々の初心忘るべからず。③老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」という一節からのものです。世阿弥は、人生の中にいくつもの初心があると言っています。若い時の初心、人生の時々の初心、そして老後の初心。その時々のダメな自分を忘れるなと戒めているのです。初心とは「段階ごとに経験する芸の未熟さ」のことなのです。未熟な時代の経験、無様な失敗やその時の屈辱感を忘れないように、常に自らを戒めれば、上達しようとする姿を保ち続けることができると教えてくれています。初心とは決して良いものではないのです。学び続けることの大切さ、常にアップデートする姿勢の大切さを改めて教えられる言葉です。校長として未熟な自分を戒め、精進しようと思います。

祝 20万アクセス突破


中原中学校ホームページの閲覧数が延べ20万を突破しました。いつもアクセスいただきありがとうございます。これからも積極的に学校の様子を配信してまいります。記事をご覧になりましたら、どうぞ【投票する】のアイコンを押していただけると励みになります。よろしくお願いいたします。                          

勉強することの意義2 積極的な受動性


本を読むということも、同じく聴く構えを要求される。著者に対して100%同意するのではないまでも、耳を傾け虚心坦懐に、つまり心をすっきりさせて、読むわけだ。もちろん反発もあるかも知れないが、まずは相手の言っていることを受け入れてみようという、「積極的に受動的な構え」を勉強・読書を通じて作り上げる。これが学ぶ構えの基本なのだ。
 学ぶ構えの基本は、受動的であることに積極的な「積極的受動性」である。自己表現の欲求があるのはかまわない。表現するためにいろいろなものを読んで、自分のものにしてそれで表現するのが、筋道なのだ。モーツァルトが音楽の技法・文法を習得して表現したように、である。
 知識や技術を吸収するときには、人の言っていることに耳を傾けるという素直な態度が必要である。素直であるということが、学ぶという活動そのものの持っている本質なのだ。
 もちろん反発しながら、ぶつかり合いながら学ぶというやり方もないわけではないが、基本的には学ぶという活動は「素直さ」を育てるものである。だから勉強すればするほど意固地になっているとしたら、これは学び方がどこか狂っているのではないか。偏狭な考え方になっていくようでは、学んでいる甲斐がないことになってしまう。
 そういうわけで、勉強すると素直に吸収する構えが技となる。これがすなわち頭自体が良くなるということだ。だから「頭がいいから勉強ができる」とか「頭が悪いから勉強ができない」などとよく言うが、そういう考えはあまり発展性のある考え方ではない。実際、「頭のよさ」はトレーニングによって明白に向上する。「頭」と私達が思っているのは、もちろん情報の高速処理もあるが、おもに文脈をつける力を指していることが多い。その文脈をつけて理解する力というのは、やればやるほど伸びていくものなのだ。
 勉強というものはそういう意味で、まず頭を良くするし、ある程度自制心をもって心をコントロールするということに大変役に立つ。もちろん、その上に知識そのものの価値ということが乗っかってくる。


                      「教育力」斉藤 孝 著より抜粋