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2025年10月の記事一覧

10月15日(水)「暇」と「退屈」の違い

〇先日の夕方から夜にかけて、我が家に3回も宅配業者が訪れ、玄関先に「置き配」をしてくれました。ご存知の通り「置き配」とは、配達員さんが直接手渡しする代わりに、玄関前や宅配ボックスなど指定した場所に商品を置いてもらう非対面型の配達サービスのことです。

〇従来は住民が不在の場合、配達員が荷物をいったん持ち帰り、再度配達していましたが、あまりにもその非効率さが問題となり、もし在宅していなくても受け取れる方法を模索していたようです。

〇「置き配」が認められて、再配達の手間が省けるとともに、各自ライフスタイルに合わせて便利に荷物を受け取ることができます。

〇我が家も家族が別々にネットで「ア〇〇ン」に注文しますので、先ほどのような一晩に数回も別々な荷物が届くことがあります。注文する物は、水などの日用品、身の回りの雑貨、本などです。

〇私も最近は本の購入をする際に書店に行くことが減り、ネット注文が多くなりました。それまでは書店に出向き多くの本の中から目当ての本を探していました。また、もし欲しい本がなくても取り寄せを依頼し、数日後にまた取りに行くのが当たり前でした。

〇しかし今はネット注文で、はやい場合には翌日中に自宅に届くので、どうしても以前のように書店まで行くことを避けるようになっています。それでも書店には行けばそれなりの魅力があるので、まったく行かないわけではありません。

〇先日に届いた荷物の一つは私が注文した本で、ただ2冊だけだったので、こじんまりとした包装で、玄関先にちょこんと置いてありました。正直に言えば「便利だけど何回も配達してもらって申し訳ないな」という気持ちが一晩消えませんでした。

〇昨日も東京大学大学院の國分功一郎教授の著書『『暇と退屈の倫理学』を引用し、私が感じた「消費」と「浪費」の違いを書きました。その題名のとおり、國分教授は「暇」と「退屈」の違いについても、現代人が豊かさから得た「暇」を持て余し、それを消費社会が「退屈」の気晴らしに利用している状況を哲学者として分析しています。

〇一部を引用させてもらいながら、「暇と退屈の区別」について、自分が感じていることを書きます。

〇まず「暇」は客観的に何もすることがない状態であり、例えば私が書店に行く時間がなくなったことで、自宅にいながらも読みたい本が受け取れ、さらにその本を楽しく読むなどの時間的な余裕が生まれたことです。これは自分にとっては好ましいことであり、少なくとも不快感とはほど遠いものです。

〇それに対し「退屈」は、「暇」がもたらす主観的な不快感であり、もし私が先ほどように得た時間的な余裕を、「退屈」を避けるために、ダラダラとスマホで動画等を観る娯楽に興じていたとすると、結局最後には、「何となく無駄な時間を過ごしてしまったな。その分本でも読めば良かった」などと後悔(不快感)を抱くようなことです。

〇國分教授は、食事中や休憩中にスマホを何となくいじる(ながらスマホ)時間などは、「退屈を紛らわせるための【気晴らし】に過ぎず、それに依存し続けても、本当の満足感を得られない」と指摘しています。さらに、「自分自身の頭で考え、退屈との付き合い方を編み出していくことが、各自の【暇と退屈の倫理学】を構築する鍵となる」とも述べています。

〇現代人は仕事や家事の一部を機械やロボットが代役してくれるようになった分、時間的な余裕(暇)を持てるようになりました。ただその余裕を、自分が本当にやりたいことを味わうようにすれば決して「退屈」を感じることはありません。

〇もったいないのは、その暇を意識もなくながらスマホなどをして何となく過ごすことだと思います。これはむしろ子どもよりも大人の方が余計に気をつけないといけない・・かもしれません。

〇同居している二男は、親子ネコがトレードマークの宅配会社に就職して数年が経ちます。彼と前記の再配達の問題なども時々話をしますが、「会社も依頼者の要求にできるだけ応えるように改善策を考えているけど、人手が足りないことなど課題も多い」と教えてくれました。

〇それ以来、無暗にネット注文することなどは止めるようにしています。

須藤昌英

【「暇と退屈の倫理学」は高校の教科書に掲載されました】