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校長室より
時代が変われば…
元陸上競技選手の為末大さんの文章を紹介します。
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ついこの間友達と飲んでいて、世界陸上の話になったので私の昔の映像を見たんですね。スタート前に戦にでも行くのかぐらいの表情をしていて「この時会ってたら友達になってないなあ」とか笑って話していました。
今年の夏の世界陸上に出場された選手たちの表情を思い出すと、笑顔がたくさんありましたよね。のびのびプレイしていて、それぞれの個性が溢れてくるようでした。それと比較すると私の時代は悲壮感がありました。高校生の頃、笑顔が禁止の学校が周囲にあって、真剣にやれ、歯を見せるな、と言われたりして選手は皆無表情で走ってました。そういえばオリンピックの壮行会で「試合を楽しんできます」と言って、「代表のくせに楽しんでんじゃない」と世間から批判された選手も いたりしました。そういう時代だったんですね。
2010年ぐらいでしょうか。空気が変わってきたのが。 笑顔の選手が増え、試合を楽しむ選手が増えました。
今考えるとなんだったんでしょうね。フェアな見方をすると、日本だけでもなかったんですよね。特に社会主義国の選手は皆同じような表情をしていた気がします。
1945年が戦争終結ですから、その時点で戦争を経験した30歳の人が指導者になっていたとすると、選手を育てた期間が1945-1975年あたりでしょうかね。その指導者に育てられた方々が30年間いると考えると、1955-2010年ぐらいまで指導していた感じでしょうか。それがちょうど薄れてきたというのもあるんですかね。
ついに日本にも楽しいスポーツが到来しているように感じます。楽しんでもきちんと結果が出るんだというのを今の選手たちが証明してくれているようで、心から 嬉しく思います。
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学校教育も大きく変化してきています。よく「不易流行」の「不易」という言葉を「変わらないもの」「変えてはいけないもの」という風に主張する人がいますが、本当は絶え間ない変化の中で普遍的な価値を持ち続けることが本来の「不易」なのだと思います。教育の普遍的な価値とは「子どもたちを成長させる」こと。そして「子どもたちに自由を獲得させる」ことではないでしょうか。「三者面談」と「教育相談」が始まります。柏三中は生徒・保護者と真摯に向き合います。
言葉の力 (生徒会任命式にて)
生徒会の任命式がありました。柏三中では任命式の運営までを選挙管理委員会が行い、任命式をもって選挙管理委員会が解散するという形をとっています。会の中で、選挙管理委員長の助成一花さん、旧生徒会長の井澗理央さん、新生徒会長の田中美礼さんが全校に伝えたメッセージが素晴らしかったので、紹介したいと思います。
選挙管理委員長 助成一花さん
こんにちは、選挙管理委題へ助成です。まずはじめに、生徒会選前に立候補し、最後まで全力で取り組んでくれた 立候補者のみなさん、本当におつかれさまでした。今回の選挙では、どの候補者も学校をより楽しく、過しやすくしたいという思いを しっかりと話してくれました。その姿は頼もしく、同じ仲間として誇らしく感じました。
そして、真剣な態度で演説に耳を傾け投票してくれた 全校のみなさん、本当にありがとうございました。
皆さん一人一人の一票が、学校の未来を作っていく大切な力になりました。
今日、ここで新しい生徒会役員が任命されます。選ばれた生徒会役員の皆さんには、学校の中心として、みんなの声を形にしていく役割があります。ですが、それを支えていくのはここにいる全員です。
全校生徒で協力して、今まで以上により良い柏三中にしていきましょう。
旧生徒会長 井澗理央さん
こんにちは!旧生徒会長、井澗理央です。
今年度はみなさんの意見や協力、盛り上がりのおかげでたくさんのことを成功させることができました。
本当にありがとうございました。
突然ですが皆さんは今年度の生徒会スローガンを覚えているでしょうか?今年度のスローガンは『昇華』~自分たちで創り出す最高の三中へ~です。前期はこのスローガンの通り、生徒みんなで最高の三中を作ることができたと思います。
そして、新生徒会なら必ずこの『最高の三中』をさらに上回る場所にしてくれると、私は確信しています。
3年生はいろいろなことを1、2年生に引き継ぎ、これからそれぞれの進路に歩みだすと思います。卒業まであとわずか5ヶ月となりました。三中の一員としての自覚と責任を最後まで持ち続け、みんなで最高の笑顔で卒業の日を迎えましょう!
1、2年生の皆さん!これからの学校生活を引っ張っていくのは、みなさんになります。特に2年生は学校のリーダーとなり、きっとはじめは慣れないことだらけで不安や心配などそんな気持ちもあるかと思います。でも安心してください!周りの仲間とお互いに助け合い、みんなの力を合わせれば、不安などは消え、何事も楽しくなってくると思います。緊張するときこそ楽しんで、失敗を恐れず頑張ってください!1年生はそんな2年生をぜひサポートをしてあげてください!
私たち3年生は、卒業まで、全力で1、2年生をサポートし続けます。困ったらいつでも相談に来てください!新生徒会を中心とした三中全体の活躍を心から応援しています!
ありがとうございました!!
新生徒会長の田中美礼さん
生徒会長になりました、田中美礼です。
私たち新生徒会役員は、今をより良く、未来につなげることを大切に、活動していきたいと思います。
これまでの生徒会の先輩たちは、様々なアイデアと努力で、学校を少しずつ良くしてきてくれました。
そのバトンを私たちがしっかりと受け取り、さらに一歩進んだ取り組みをしていきます。
公約に掲げた、生徒からの意見収集の活発化、学校生活・行事の活性化、学習環境の整備、健康面に配慮した学校の設備を整え、部活動への応援や感謝を伝える時間を作ること、これらをメインに、実現していきます。
皆さんの意見を聞き、取り入れ、誰もが思いやアイデアを出せる学校づくりをし、提案や改善を繰り返し、生徒会が中心となって進めていきたいと思います。
学校を作っていくには生徒会だけではできません。皆さん一人一人の声が、生徒会を通して、学校を動かす力になります。生徒会はそれを形にしていき、サポートすることが役割であり、みんなの声が集まるからこそ、意味を持ちます。
一緒に柏三中をより良い学校にしていきましょう。これから一年間よろしくお願いします。
【三年生へ】
三年生の先輩方、学校のリーダーとして今まで引っ張ってきてくださり、ありがとうございました。
私たち後輩にとって、先輩方が築いてこられた姿勢や空気は、大きな手本であり、憧れでもありました。
先輩たちの背中を見て学んできたことを、これからの学校生活に活かしていき、今度は私たちがこの柏三中を作っていきます。
学ぶ力
〇多様性を認める生徒(Diversity Smile)
自己を大切にし、多様性を認め、対話や協働を通じて豊かな社会を築いていける生徒
〇可能性に挑戦する生徒(Challenge)
夢と志を持って可能性に挑戦し続ける生徒
〇主体的に学び続ける生徒(Update)
創造的に課題を見つけ、解決のために生涯主体的に学び続ける生徒
柏三中の学校教育目標です。3つ目の「主体的に学び続ける生徒(Update)」という目標を達成するためには、学ぶ力を身につけなければいけません。学ぶ力とはどんな力なのでしょう。私の尊敬する内田樹先生(神戸女学院名誉教授)の文章が2年生の国語の教科書に掲載されていたので、紹介したいと思います。
日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは 「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をお腹いっぱいに詰め込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人は間違いなく「消化力が強い」といえます。「消化力が強 いです」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。 「睡眠力」や、「自然治癒力」というものも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は睡眠力が高いといえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることはふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。わたしは「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれません。
師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。
読んでみて、改めて腑落ちしました。60歳になっても、新たな学びの連続の日々です。一生学び続けようと思います。
どうして「ことばの暴力」が生まれるのか
「…………でもさ、正直ぼく、作文が上手になりたいわけじゃないんだ。べつにコンクール で賞状をもらいたいとか、思ってないんだ。そりゃ、おじさんの言ってることはわかるけど僕には関係なくない?」
「 もちろんおじさんだって、作文を上手に書いてほしいわけじゃない。でも、ことばを 決めるのが早すぎると、たくさんのトラブルを呼び込んでしまうんだ。これは書くこと にかぎらず、日常生活のいろんな場面でね」
「トラブルって、どんな?」
「そうだな、たとえば『ことばの暴力』ってあるだろ?」
「ことばの暴力?」
「ああ。相手の存在、尊厳、自尊感情を根こそぎ否定するような、心をえぐり取るよう なことばさ。ことばの暴力を受けたとき、ぼくたちは殴られるより もずっと深い心の傷を負う。殴られた痛みはせいぜい数日も経てば 消えるけれど、ことばの暴力は一生引きずることもある」
「・・・・・・うん」
中学に上がってからぼくは、たくさんのことばでいじめられた。
「バカ」とか「アホ」とかは、いやだけどそこまで傷つかない。でも「ゆでダコ」はとてもいやだし、「キモイ」はもっといやだ。そしてトビオくんたちは、すぐに「キモイ」とか「ゆでダコ」とか、ぼくがいちばん傷つくことばを使ってくる。
「残念なことに、おとなたちもことばの暴力を使う。手で殴ること はしなくても、ことばの刃でグサグサと刺してくる。じゃあ、どうしてことばの暴力が生まれるのか。おそらく理由はふたつある
「なに?」
「ひとつ目の理由は、ことばの『効き目』を知っているからだ。きっとみんな、ことば に傷つけられた経験があるんだろうね。こんなふうに言えば、こんなふうに効くと知っている。そのことばを使えば、一発で黙らせることができると知っ ている。だから自分が傷ついたのと同じようなことばを使うし、大声で怒鳴ったりする。」
「・・・・・・うん」
「じゃあ、どうして1発で黙らせたいのか。それがふたつ目の理由、『面倒くさい』だ」
「面倒くさい?」
「そうだ。ことばの暴力ってさ、話し合いの場面で使われることがほとんどなんだよ。口論だって話し合いのひとつだしね。そして話 し合いであれば、ほんとうは自分の思いをていねいに説明して、相 手に納得してもらわないといけない」
「うん、そう思う」
「ところが、ていねいに説明するのが面倒くさい。論理的に説明するのも面倒くさい。反論されたら面倒くさい。自分の気持ちをことばにすること自体、 面倒くさい。そこに時間や手間をかけることも面倒くさい――。そういうさまざまな面倒くささにぶつかったとき、『暴力』という一発逆転の手段が浮かんでくる。暴力に訴えてしまえば、それだけで相手を屈服させることができるからね」
「・・・・・・なにそれ」 「ことばにして説明する手間を省いているのさ。それに、自分の形勢が不利になったと きだって、大声で怒鳴ってしまえばごまかしが効くしね」
「いきなり殴っちゃうってこと?」
「おじさんが子どものころは、そういうおとなも多かった。でも、いまはことばの暴力が中心じゃないかな。手を出すような暴力も、ことばによる暴力も、大声で怒鳴って相手を黙らせるのも、彼らにとってはそれが『コスパがいい』やりかたなんだよ。ひどい話だけどね」
「コスパがいい?」
「言葉にして説明する手間を省いているのさ。それに自分の形勢が不利になったときだって、大声で怒鳴ってしまえばごまかしが効くしね」
「・・・・・・なにそれ」
「もちろんひどい話だ。とくに、やられる側からすれば、とんでもない話だ。でもね、タコジローくんだって暴力を振るう側にまわる可能性はあるんだよ? 面倒くささに負けて、コスパのいい道を選んで。ほら、さっき『口が滑る』って話をしただろ?」
そうだ。ぼくはふたたび、お母さんに言ったひと言を思い出した。あれは口が滑っただけじゃない。あのときぼくは、なにもかもが面倒くさくなって、ことばにできない自分にむしゃくしゃして、あんなことを言ってしまったんだ。あれで終わりにさせようとしたんだ。
『さみしい夜にはペンを持て』 古賀史健 著 ポプラ社 より抜粋
丁寧に、言葉を尽くして対話する。手間を省かずに言葉を尽くして相手に伝える。聞いている方も、相手の立場に立って慎重に真意を探る。コミュニケーションとはそういうものだと思う。匿名による誹謗中傷が溢れているSNSの世界から少し距離をとって、本を読むことをお勧めしたい。
夜についてのメモ
夜明け前が一番暗い。これはイギリスの諺だが、人間は古来から夜明けに希望を感じる生き物のようだ。確かに朝が存在しなければ、あらゆる生命は誕生しなかっただろう。しかし、夜が存在しなければ、地球の外の世界に気づくこともできなかっただろう。夜がやってくるから、私たちは闇の向こうのとてつもない広がりを想像することができる。私はしばしば、このままずっと夜が続いて欲しい。永遠に夜空を眺めていたいと思う。暗闇と静寂が、私をこの世界につなぎとめている。どこか別の街で暮らす誰かが眠れぬ夜を過ごし、朝が来るのを待ち伸びているかもしれない。しかし、そんな人間たちの感情とは無関係に、この世界は動いている。地球が時速1700キロメートルで自転している限り、夜も朝も等しく巡ってくる。そして地球が時速110,000キロメートルで公転している限り、同じ夜や同じ朝は存在しえない。今、ここにしかない闇と光。全ては移り変わっていく。1つの科学的な真実。喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り必ず終わる。そして新しい夜明けがやってくる。
少し前に見た映画、「夜明けのすべて」の中のセリフです。上白石萌音さんが演じる主人公が、プラネタリウムの説明で読んだ一説です。すごく心に響いたので、紹介しました。誰の人生にも、毎日いろいろなことが起こり、悩みは尽きないかもしれませんが、必ず夜明けはきます。前を向いていきましょう。
勉強というものは、いいものだ。
「勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。
『正義と微笑』 太宰治 著 青空文庫 より抜粋
「覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。」太宰が学ぶことの意義を伝えてくれています。「カルチベート(cultivate)」とは、主に「耕す」「養う」「磨く」などの意味で使われます。土地を耕すだけでなく、才能や品性を養ったり、知識や教養を深めたりする意味合いも含まれます。「農業」を表すアグリカルチャー(agriculture)に「文化」を表すカルチャー(culture)が含まれています。つまり、文化とは、私たちの生活を豊かに「耕し」、そして私たち自身の「心」を「耕す」ものという意味です。すべての産業の始まりである農業との結びつきに深い意味を感じます。AIやIoT、ビッグデータといったSociety 5.0(第5次産業革命)の時代だからこそ、学ぶことの意義をもう一度考えることが必要なのです。
読書ノススメ
本は与えられても、読書は与えられない。読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。自分で本を選び、ページを開き、文字を追って頭の中に世界を構築し、その世界に対する評価を自分で決めなければならない。それは、群れることに慣れた頭には少々つらい。しかし、読書が素晴らしいのはそこから先だ。独りで本と向き合い、自分が 何者か考え始めた時から、読者は世界と繋がることができる。孤独であるとい うことは、誰とでも出会えるということなのだ。
「小説以外」 恩田陸 著 新潮文庫 より抜粋
夏休みに、本を読むことをおすすめします。SNSから離れ、自分自身と向き合う時間を大切にしてください。孤独であるということは、新しい出会いがあるということなのです。
夏休みまであと9日
1年生のフロアで「スマチャくん」が夏休みまでのカウントダウンをしています。スマチャくん、すでに夏休みモードです。(笑)
センス・オブ・ワンダー
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・ オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。妖精の力にたよらないで、生まれつきそなわっている子どもの「センス・オ ブ・ワンダー」をいつも新鮮にたもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります。多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生きものたちが住む複雑な自然界について自分がなにも知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいかわからなくなります。そして、「自分の子どもに自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。私は、そこにいる鳥の名前すら知らないのに。」と嘆きの声をあげるのです。
わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思う ようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。
「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン 著 上遠恵子 訳 新潮文庫 より抜粋
学生時代に読んだ本をたまたま読み返してみた。『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。…美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思う ようになります。』というレイチェルの言葉に、答えを教えてもらったような気がした。『世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人』でありたいと思った。
おはよう3DAYS
6月18日から今日までの3日間、おはよう3DAYS(地域のあいさつ運動)を実施しました。おはよう3DAYSは、現在の柏第三中学校区学校運営協議会(コミュニティスクール)の前身ともいえる、三校合同連絡協議会が始めた行事で、平成21年ころに始まったと聞いています。そのころにつくられた、のぼり旗を継承し、柏六小、柏七小、柏三中の三校で、昨年度復活させた行事です。昨年度は2日間の実施でしたが、今年度からは名前の通り3日間の開催としました。柏第三中学校区学校運営協議会のメンバーの皆さんや、PTA、地域の方々もご参加いただきました。今後も継続していきたい行事です。