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校長雑感ブログ

2月7日(金)梅の開花と合格祈願

〇昨夕、千葉県公立高等学校入学者選抜における各高等学校別の志願倍率が発表されました。これにより1回に限り、志願の変更(志望校を変える、同じ高校内の志願学科を変える)の手続きをすることができます。手続き日は、2月12日、13日(ただし午後4時まで)です。

〇今日から本人と家族の意向を受け、担任と3学年職員は志願変更の手続きの準備に入ります。前にも書きましたが、私の経験からもこれは無暗に行わず、慎重に考える必要があります、理由として志願変更は「チャンスとリスクの両面」があり、場合によっては本人に心の動揺が残ることも過去にはありました。

〇手続きは本人とご家庭にしてもらいますが、少し複雑なので注意が必要です。まずすでに出願している高等学校へ行き、書類を引き取ります。次にインターネットによって新たに出願する高等学校へアクセスし手続きします。最後に中学校が作成した書類を新たに出願する高等学校へ出向き、提出して完了です。

〇昨日の朝、保健室前の梅が一輪咲いているのを発見しました。ここ数日間、つぼみが膨らんでいたので観察していましたので、見つけた時の喜びが大きく感じられました。冷たい風の中、日差しをたっぷりと浴びてどこか誇らしく咲いています。

〇梅は桜とよく比べられますが、梅の方が開花時期がはやく、「寒さを耐え忍んで咲く」というイメージがあります。厳しい状況でも美しく咲くので、つつましくても昔から人々の思いが寄せられてきたのだと思います。事実、平安時代には梅に関する多くの和歌が詠まれました。

〇特に有名なのが、学問の神様と言われる菅原道真(845年~903年:平安時代の公卿・漢学者・文人)が詠んだ

「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな(春な忘れそ)」です。この和歌は、菅原道真がいいがかりともいえる罪をきせられ、九州の太宰府へ左遷される際、大事にしていた梅の木を前にして心をよせるように詠んだ作品だと、中学校の国語の時間で習い、当時に暗唱して覚えたので、今でも強く印象に残っています。

〇おおよその意訳としては、「春風が吹いたら、お前の匂いを(京から太宰府まで)送っておくれよ、かわいい梅の花。私(主人の菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないぞ」くらいでしょうか?「東風(こち)」がなぜ春風のことであるのかは、少し調べましたら中国の自然哲学「五行説」からきているそうです。春という季節は、東の方角と関係が深く、同様に「東南西北」が「春夏秋冬」にあたるそうです。

〇菅原道真は天才的な学問の大家で人柄もやさしく、多くの人々から尊敬されていましたが、当時の政権幹部からその名声を疎まれ、あらぬ罪で左遷されました。本人には政治的な意図はなかったとされますが、京の都で学問を究めるという本懐を果たせず、さぞ悔しい思いをしたことでしょう。

〇その大宰府での生活は大変きびしくみじめで、気候や風土が変わったためもあり、最後は体調をこわし、都に残した妻子にも会えず、一説によると西暦903年2月に59才で亡くなったそうです。今から1120年前の2月です。

〇その後、京都では雷が落ちて火災がしきりに起こったり、伝染病がはやったりとよくないことがつづいたので、人々は菅原道真の霊がこのようなたたりをしているのではないかといっておそれたという話はとても有名です。

〇昨年の修学旅行でも、何クラスかは3日目に、京都の北野天満宮(菅原道真公を御祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社)に受験祈願供養で参拝しています。個人の参拝ですとお守りが多いですが、団体での参拝でしたので、学業成就の札をいただいてきました。

〇学問の神様の菅原道真公と比べることはおこがましいですが、私も校長として生徒の「学び続ける姿」をかげながら応援しています。特に再来週の公立高校受検には、3年生全員が自分の力を出し切れるようにと願っています。

〇合格することをよく「桜咲く」と言いますが、梅は可憐な花が咲いてその香りに特徴がありますので、「梅香る」がぴったりだと思っています。そういうことで、今年の梅の花はいっそう奇麗に咲いてほしいです。

須藤昌英

【北野天満宮勧学守護札】

2月6日(木)自己承認欲求(「いいね!」の功罪)

〇人間が社会の中で生きていく際には、様々なことに葛藤したり悩んだりしながら、理想を求めて日々過ごしています。その背景の一つとして、アメリカの心理学者マズローが提案した「欲求5段階説」があります。これは、人間の欲求を5段階のピラミッドに分けて考える古典的心理学理論です。

〇その中でも上から2番目の欲求である「承認欲求」は、誰もが持つ本能的な欲求であるとされています。「自分を良く見せたい、周りからよく見られたい」という劣等感に近い感情(自己肯定感の低さ)は、自己承認欲求と位置付けらます。

〇この「校長雑感ブログ」にも下欄に「いいね」の機能がついています。私としては「なくてもいいかな?」と思っていますが、何となく設定を削除をせずにホームページのフォーマットをそのままにしています。

〇ただ実際に「いいね」があると、全く気にしないというわけにはいかないのが人情です。上述のように私たちは誰しも「誰かに認められたい、受け入れられたい」と思う気持ちを持っていますので、その心理が無意識に働くのだと思います。

〇その「いいね」という機能について、功罪(または長所と短所)があるとも感じます。生徒たちも様々なSNSを使って情報発信をすることが当たり前になっている中で、一喜一憂しているという例も多く聞いています。

〇功(長所)の面からは、まず「人との共感性の見える化」が挙げられます。自分の意見や価値観に共感してくれた人数がわかれば、確かに悪い気はしません。しかも、その相手が目の前にいなくてもいつでも「いいね」がもらえ、満足感などを得ることができるのが「いいね」だとも言えます。

〇また前述の「承認欲求の充足」が挙げられます。特に中学生など思春期の若者は、自分の意見や価値観に自信がなかったり他人との比較を重要視することが多かったりします。そこで「いいね」は自分の考えを肯定してくれ、社会から認められているという感覚を与えてくれます。

〇さらに「所属感の獲得」が挙げられます。「いいね」は不特定多数の他人からの賞賛の声や同意の証として機能します。この「いいね」をもらえる機会が増えると、それだけ社会集団の一員として帰属意識が芽生えます。要するに、自分にとっての居場所が確保できたと受け止めやすい状況が作れるのです 。

〇一方で、今度はSNSの「いいね」が現代の人間心理に与えた罪(短所)については、段々と「もっと認めてほしい」などの依存性が出てくることがあります。これは心理学では「強化」と呼ばれています。依存性からさらに中毒性にまですすんでしまうと、治療が必要にもなるそうです。

〇厄介なのは、もっと「いいね」がもらえるように発信の回数が極度に増えたり、内容も「受け」を狙うようになり真実や自分の本当の気持ちからも乖離したことを発信するようになったりします。つまり、心の中が「いいね」に支配されてしまい、「いいね」がないと不安になったり焦ったりします。

〇さらにSNSを確認する回数や時間が増えると、画面を注視して視力の低下や頭を少し前へ傾き続ける姿勢が続くなど身体への影響が免れません。時には心身の不調を覚え、日常生活を送ることにも支障が出る場合もあります。 

〇また「喪失感や空虚感を抱きやすい」面が出てきても、自分では実感が湧きにくく気が付かないという特徴があります。最初が「いいね」がもらえて単純に喜んでいたのに、次第にその嬉しさや楽しさが減り、虚しさや悲しさを感じやすくなります。これは「いいね」を追い求めた反動・リスクとしてのネガティブな感情の生起で、注意が必要です。

〇これを書きながら「大人も同じようなところは少なからずあるなあ・・・」と感じました。昨日の「デフォルト・モード・ネットワーク(ぼんやりとした脳の状態)」とも関連しますが、自分の欲求を把握してある程度コントロールできるようになればいいな・・と感じます。

須藤昌英

 

2月5日(水)無駄な時間はない!?「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」

〇人は時として時間をもてあまし、何もしないで一日ボーッと過ごすということがあります。いわゆるコスパ・タイパ・スぺパなどの効率を優先する傾向の現代では、これを「時間の無駄」と切り捨てる風潮が強い気がします。

〇しかしその一方で、人が生涯にわたって学び続ける上には、この「無駄」と思われることが、脳科学の分野での研究がすすんだことにより、案外意味があるということがわかってきています。

〇それが「デフォルト・モード・ネットワーク(Default Mode Network)」という脳の状態で、端的にいうと、ぼんやりした状態の脳が行なっている神経活動のことです。

〇ある一つのことに集中したり注意が払われたりするのではなく、ただぼんやりとしてあれやこれやと雑念している時や睡眠中の脳が示す神経活動のパターンのようです。

〇これは車で例えられるとわかりやすいです。デフォルト・モード・ネットワークは、車のエンジンのスイッチはONになっていても実際には走行していない時の「アイドリング状態」です。車を運転しない方でも信号待ちの車のエンジンをイメージするとわかると思います。

〇日常生活の中で、人が何も考えずにボーッと散歩しているとき、一息つくために好きな飲み物を飲んでいるとき、身体がリラックスした状態で入浴をしているときなどに、デフォルト・モード・ネットワークは活発化しています。

〇脳神経外科医の奥村歩氏によると、脳は以下のプロセスで情報を処理しているのだそうです。

1 入力(インプット):五感を通して情報を収集する

2 整理:(DMN)入力した情報を取捨選択する

3 出力(アウトプット):言葉や行動として表す

〇デフォルト・モード・ネットワークが重要になるのは、2番目の「整理」段階で、この状態で自分の過去の経験や記憶を整理・統合したり、これから起きる出来事にどう対応したりするかを想定しています。

〇逆にデフォルト・モード・ネットワークの働きが弱いと、脳内で情報が整理されず、物が散乱した机上のような「脳過労」状態になり、インプットした情報が脳に定着しづらくなったり、脳の活動自体が低下してスムーズなアウトプットにつながらなかったりするといった恐れがあるそうです。

〇散らかった部屋を掃除すると自然と気分が爽快になります。同じく脳内にやたらにたまった情報をスッキリと片づけ、脳疲労を防ぐためにも、デフォルト・モード・ネットワークをオンにすることは重要です。

〇一番注目したいのは、デフォルト・モード・ネットワークの働きは「創造性」と関係しているらしいことです。これが活発になるとあらかじめ蓄えられた情報がそれぞれ結びつきやすくなり、新しいアイデアや発想が生まれやすくなります。

〇私も先ほどのように散歩や自転車に乗っているとリラックスして過ごす時間に、フッと「そうだ!あれをやってみよう!!」などの思い付きがあります。ただすぐにメモなどをしておかないと、後で容易に思い出せないこともあります。

〇早速このアイデアを実行に移してみるとどこか楽しく、たとえ予想通りの結果が得られなくても、「次はこうやってみようか」などのチャレンジする意欲につながっていることが多いです。

〇ただデフォルト・モード・ネットワークが活発化していると、脳内では通常時よりも数倍以上のエネルギーを必要としているそうです。つまり「ボーッ」としている方が、何かを考えているときよりもエネルギーを使っていることになり、意外な感じがします。

〇少し時間があると、大人も子どもスマホとにらめっこして、ボーッとする時間が少ないようです。残念ながら暇をしていてもスマホを操作している時には、脳内が整理されるのではなく、逆に情報が入ってきて散らかしていることになってしまいます。

〇もしご家庭でお子様が何もせずボーッとしていても、もしかしたら脳はその子に新しいアイデアを用意してくれているかもしれません。今度はぜひ「どう何か思いついた?」のような声掛けをしてみてください。

須藤昌英

2月4日(火)千葉県公立高等学校入学者選抜にかかる出願

〇本日から3日間(ただし6日は午前中のみ)、千葉県立及び柏市立柏高等学校の出願に係る手続き期間となります。今年から生徒本人が事前にWEB上の出願登録サイトでの受付を完了させ、それを中学校が確認した後、志望先の高等学校へ調査書等の必要書類を郵送するかたちに変わりました。

〇基本的に公立高等学校へ出願できる条件は、「県の内外を問わず、他の公立高等学校を出願していないこと」です。以前は入学願書にそのことを校長が証明する欄がありましたが、改定後は調査書の下欄に、「本書の記載に誤りのないこと及び貴校に応募する資格のあることを証明する」とあり、それに私がすべて校長印を捺印しています。

〇出願する高等学校の所在地は、柏市9校、我孫子市2校、鎌ヶ谷市1校、流山市4校、野田市2校、松戸市6校と広域になります。以前ですと本人が朝、学校で出願書類を受け取り、志願先の高等学校へ徒歩や公共交通機関等を使って行き、直接出願していました。それは学力検査等の当日の下見を兼ねるねらいもありましたが、今回は郵送ですので、本番までに再度経路を確認するように、学年職員が指導しています。

〇出願期間が終わる6日の夕方または7日金曜日に、ネットや新聞等で志願倍率が発表されます。その倍率を参考にし、1回に限り、志願の変更の手続きをすることができます(2月12日、13日)。ただしこれは無暗に行うと返って本人に心の動揺(変更することにはチャンスとリスクの両面がある)が残ることも過去にはありましたので、慎重に行わなければなりません。

〇この2つの手続きが終わったら、あとは18日と19日の学力検査等の当日になります。生徒のみなさんには、「最後は自分のやってきたことを信じて」と言ってあげたい気持ちです。不安を感じない人など一人もいませんので、自分だけが不安だと思わないでほしいと昨年の校長面接でも何人かには伝えました。

〇私も昔に受験した経験から思い出すことは、他の学校から出願した人見知らぬ人は皆、「自分よりも出来そうだ」とか「自信がありそうだ」などと思えます。しかしその人たちもすべて同じような気持ちでいます。できればたまたま同じ学校を受検した人は、「ライバル」というよりは「同志」だと思って、「お互い頑張ろう」くらいの気持ちでいる方が、気が楽になると今は思います。

〇本番直前にあえてこれまでの生活スタイルを変えるのはあまり好ましいことではありません。直前まで踏ん張って準備したい気持ちはわかりますが、最後の追い込みとして深夜まで勉強をしようとするのはやめた方が無難です。これも自分の経験ですが、そのことが果たして自分にあっているのか否かと思いあぐんだり、寝不足になったりと精神的・身体的負担がかかります。新しいことをする気持ちをあえて抑えて、今までの生活リズムを貫いていった方が良いと思います。

〇中学校の教員には、『十五(歳)の春は泣かせない』いう言葉が先輩の先生方から伝わってきています。義務教育9年間を終え、新たな進路先を自分で選ぼうとしている3年生。合否の結果は我々にはどうすることもできませんが、本人が努力してきた力を精一杯出し切れるように祈るしかありません。

〇学校(すべての在校生・教職員)をあげて3年生の健闘を祈っています。

須藤昌英

 

2月3日(月)節分と立春

〇昨日は「節分」で今日は「立春」です。昨日は雪が心配されましたが、この冬はここまで例年よりも暖かい気がします。ただ今週は寒さが予報されていますが、「立春」と聞くとますます春が近づく気がします。

〇今日の給食メニューは、節分にちなんで、「ご飯、鰯フライ、磯香和え、すまし汁、入り大豆」です。昔は家庭でも鰯の頭を焼いて柊の枝で刺した「柊鰯(ひいらぎいわし)」を家の玄関などに飾る風習があった記憶があります。

〇鬼が家に入ろうとした時に、鰯を焼いた強烈な臭いで驚かせ、柊の棘で鬼を刺し追い払うための魔除けの儀式だと親から教わりました。今は恵方巻と呼ばれる巻物などがスーパーで大量に陳列され、良い方角を向いて食べることが浸透しているようです。

〇また年齢の数だけ豆を食べることも風習としてあります。大豆は良質なたんぱく質ですから身体に良いとわかっていても、さすがに私も数え歳の63個は食べられませんでした。

 【節分給食】

 〇「節分」はその名の通り季節を分ける意味で、立春の他にも立夏、立秋、立冬の前の日はすべて「節分」の日です。つまり「節分」は年4回あります。その中でも特に春は新年の始まりでもあることや希望をもつという意味合いから、一説によると室町時代以降、特に春の節分が重視されるようになり、一般的に「節分」というと立春の前日を指すようになったそうです。

〇節分の日は太陽暦のカレンダーにおける大晦日にあたるそうです。この時期には中国などで、「春節」としてお祝いを盛大にするのをニュースでよく見かけます。私の自宅の近くにも中国の方がお住まいで、この時期は中国に帰っていることも多く、会うと楽しそうにその様子を話してくれます。

〇節分の日は新年を迎えるにあたり、鬼を退治するために豆が使用されます。昔はどの家庭でも豆まきを行っていました。一説によると、「魔(ま)を滅(めっ)する」という語呂合わせから「まめ」をまくようになったようです。

〇また日常でも「まめによく動く」などで使われるように、「まめ」という言葉には「体が丈夫で気が利く」という意味もあり、節分に使われる豆は「福豆」と呼ばれ縁起が良いものとされています。千葉県などは特産の殻付きの落花生を使うところもあると聞いたことがあります。

〇ではその鬼とは何を象徴しているのでしょうか?よく言われるのが、自分の心の汚い部分や弱い部分です。自分だけが得や楽をしようとしたり、相手を貶めたり意地悪をしたりする人は、少し反省することも必要でしょう。

〇誰しも「心の弱さ」はありますので、それから目をそらさずに、気づいたことはためらわずに、自分に取り入れていくことが「学び続ける」ことだと思います。自分の行動面で、普段からだらだら過ごしたり、なまけ心に勝てなかったりすることなども一つの鬼と捉えられるかもしれません。いずれにせよ自分を制御(コントロール)できるか否か、誰にとっても一生涯の課題とも言えます。

〇豆まきの時には一般的に「鬼は外、福は内」と言いながら豆を投げますが、これはご存じの通り、鬼(厄や邪気)は家の外へ、福(幸運や福の神)は家の中へどうぞ、という意味が込められています。鬼も「赤鬼は貪欲、欲望、渇望」の象徴で、「青鬼は瞋恚、悪意、憎しみ、怒り」を表しているそうです。自分自身の悪い心に豆をぶつけることで、福徳に恵まれることを信じて行われてきたのでしょう。

〇中学校では豆まきはしませんが、昨晩自宅で3歳の孫娘に「赤鬼さんやって!」と頼まれても、億劫がらずにやってあげられるのは、年齢を重ねたからかもしれません。

須藤昌英

1月31日(金)学校の長年の重い課題の一つ

〇最近もファストフード店や駅などの誰もが使用する施設で、刃物を使って人に切りつける事件が後をたちません。刺されて亡くなった中学生や大人も「まさか・・」という思いだったことだろうと思います。

〇今から24年前の平成13年6月8日(金)午前10時過ぎころ、大阪教育大学教育学部附属池田小学校に、出刃包丁を持った不審者が自動車専用門から校内に侵入し、校舎1階にある第2学年と第1学年の教室等において、児童や教員23名を殺傷した事件がありました。

〇犠牲者となった8名(1年男子児童1名、2年女子児童7名)と負傷者15名(児童13名【男子5名、女子8名】、教員2名)を知った時の衝撃は、今でも忘れることができません。犯罪史上、類を見ないこの痛ましい事件は社会全体に衝撃を与え、犯人は平成16年に極刑となりました。

〇私はその後、その犯人が公判で語った言葉を記録を読んで知り、身が引き締まる思いをしました。それは「もし門が閉まっていたら、乗り越えてまで入ろうとは思わなかった」でした。その言葉が犯人の本心だとすれば、各学校は常に複数ある門を閉ざしておかなければならず、そのためには門を常に監視したり警備員を配置したりしなければならなくなります。

〇文部科学省が作成した「学校の危機管理マニュアル」には、日頃からの不審者対策の要点がまとめられています。その冒頭には、

「学校には多くの方々が、様々な用事で訪れます。しかし、その中には非常に希ですが、正当な理由がなく校地や校舎に立ち入ったり、立ち入ろうとしたりする者があります。それらの者を不審者と呼びます。学校では、子どもを犯罪被害から守るため、施設設備の状況も踏まえ、まず必要な体制等を整備し、不審者かどうかを確実にチェックする必要があります」とあります。

〇さらに、「不審者かどうかのチェックをし、正当な理由のない者には、丁寧に校地・校舎内及び周辺からの退去を求めます。素直に応じた場合でも、再び侵入する恐れがないかを見届ける必要があります。また退去しない場合、再び侵入しそうになった場合には、速やかに持ち物や暴力的な言動の有無を確かめるなど次のチェックに移ります。」と続きます。

〇前に勤務した学校で1回だけですが、上記のような不審者に対応したことがあります。警察への通報や教育委員会に報告しつつ、近隣の学校に情報提供したり学区内のパトロールの強化をしたりしたことがあります。その後は事なきを得ましたが、生徒が自宅に無事に帰るまで、経験したことのない緊張感を職員全員でもった記憶があります。

〇私も一日の中で定期的に3つの門(正門、東門、西門)が閉まっているか点検したり、わざと目立つ蛍光色のビブス(防犯パトロールの方が着用している上着)を着たりして校内を回っています。もし不審者がこれを見たら、「それ以上の不法侵入を躊躇するのではないか・・」とのねらいがあります。

〇学校はすべての生徒にとって安全な場所でなければなりません。もちろん先ほどのように複数個所に防犯カメラを設置し、随時警備員が校内パトロールをすることが望ましいですが、現状はそこまでいっていません。今いる職員で可能な防犯体制を組みつつ生徒の危機意識の向上も図っていきます。

〇具体的には生徒が学校内に不審者の侵入や危険を察知した場合、速やかに教職員に知らせ,自他の危機を回避できるなど、安全な行動がとれる態度や能力を育成することが重要です。先ほどの「もし門が閉まっていたら、乗り越えてまで入ろうとは思わなかった」という不審者の心理を逆手にとり、学校は防犯意識が高いということをアピールしていくしかありません。

〇一時期は教員も不審者対策の研修として、さすまたや椅子、傘などを使って不審者の動きを止め取り押さえる演習も行っていました。しかし近年は行っていませんので、若手教員はその経験がありません。「忘れた頃に禍はやってくる・・」みたいなこともあるので、研修の計画も考えています。

須藤昌英

【学校の危機管理マニュアル:文部科学省より】

 

1月30日(木)思考のアウトプットの「書く」とワーキングメモリ

〇学校のすべて授業では、生徒の学びを広げて深めるために、4つの言語活動(聞く、話す、読む、書く)を大切にしています。どれも日常的に無意識で行っていますが、よく考えるとそれぞれの良さや違った負担感があります。

 

〇このうち「書く」ことが一番生徒たちにとって負担が大きく、前の3つ(聞く、話す、読む)を十分に行っていないと、「自分の考え・思いを書きだす」ことや「自分を客観的にみてそれについて書く」ことは難しくなります。

〇「書く」ことでいうと、生徒たちは毎日、その日の予定やあったことを記録するノートをつけています。そのノートは「タイムくん」というかわいい名前です。担任はそれを読んで、コメントなどを書いたり心配なときは直接声をかけたりしています。

〇やはりこれも「継続は力なり」で、書き慣れている生徒は苦も無く出来事やそれに関する自分の思いなどをスラスラ書いています。またそれに比例?するように、授業で使うノートなども効率よくまとめているようです。

〇頭の中の考えや思いを書き出すことにより、その文字を再度自分の目で見ることになります。そうすると自然と心が安定したりその後の事の処理をスムーズにイメージできたりとメリットがあります。

〇「ワーキングメモリ」とは “脳のメモ帳” とも呼ばれる脳機能のことですが、実際の科学的な実験で、書くことでワーキングメモリと精神的な部分の改善が見られたそうです。ワーキングメモリの役割として会話や読書、計算など、仕事や日常生活におけるあらゆる作業や動作に必要な情報を一時的に記憶し処理します。

〇このワーキングメモリを鍛えると、頭のなかで常に整理整頓ができている状態になるそうです。これらをふまえると、いまの悩みや関心事について書き出すことがワーキングメモリにいい影響を与え、頭のなかの整理整頓を助けてくれると考えらえます。

〇ただたとえ普段は頭の整理ができている人でも、過度に忙しくなったり、ストレスが続いたりすると、頭のなかは徐々に混沌としてきます。いつもは正常に機能している脳が、うまく働いてくれない状況になることもあります。頭の整理整頓における情報のアウトプットは、誰の脳にとっても有益だと言えるでしょう。

〇私も毎日2種類の記録をつけています。一つは仕事に関することで「執務記録」です。その日に学校内であった報告事項や今後の方向性などを記録しながら様々なアイデアが頭に思い浮かびますでてきます。これも書くことで頭が整理できていると感じます。

〇特に最近、自分の記憶力に若い頃よりは自信がなくなってきているので、1カ月前の記録を見ると「そういえば、こんなことがあった」と思い出せます。過去を整理できれば、これからの先の展望ももちやすいので、定期的に確認するようにしています。

〇もう一つは私的な「日記」で、こちらは市販の「十年日記」を使用しています。例えば10年分の「1月30日」が1ページに縦に並んでいますので、書く時にはページをめくらなくても、昨年や一昨年の同じ日に何があったかを見ることができて便利です。

〇またそれによって、「次は~をしておいた方がいいかな」などを考えるきっかけになります。ただ書くスペースは小さいので、あったことや感じたことを3行程度にまとめて書いています。

〇日々成長を続ける生徒が「書く」活動をするのは、上述のような記録を残すためよりも、新しい知識や概念を獲得した際に、それに対する自分の考えをアウトプットすることで、それを整理したり他の知識とのつながりを考えたりすることが目的です。もちろんその考えは常に変化しているので、自分の考えの変遷を振り返ることもできます。

〇「良くノートなどをきれいに書くこと」は大切ですが、それ自体が目的ではありませんので、最終的には自分だけがわかるような字体で書くのでかまわないと思います。ただ書いたものを人に提出する場合には、読む人が見やすく書くのも大切でしょう。

〇実際に私も「執務記録」や「日記」は字体を整えることはせず、殴り書きがほとんどです。そのような視点で今度お子様のノートを見たときには、「自分なりによく書けてるね。書いて残すことはよいことがあるね。」のような話をしてみてください。

須藤昌英

 

1月29日(水)学校が行う教育旅行の持続性について

〇昨今の物価高騰、インバウンド(訪日外国人客)の増加、バスの運転手や旅行会社の人手不足などの問題は一般社会だけではなく、学校教育にも大きな影響を与えています。

〇先ほどのさまざまな原因が複雑に絡み合い、公立学校の教育旅行(修学旅行・林間学校・校外学習など)がこれまでにない窮地に追い込まれています。それらの校外で行う学習は、とうてい教員だけの力ではどうしようもなく、専門の旅行業者との連携は不可欠です。

〇具体的には新幹線やバスなどの移動手段、宿泊先の予約や手配、見学場所の情報や調整をサポートしてくれる添乗員が必要で、それを含めて実施する旅行のほぼ1年前に学校としての基本計画を旅行業者に示し、旅行プランを立ててくれるように依頼していきます。

〇そこで従来ですと、大手旅行会社数社に見積もりをお願いすれば、各社が案を作成しその後学校で直接各担当者による提案(プレゼン)をしてもらって決めていました。ただ最近はそのプレゼンを辞退する会社も出てきました。

〇特にこの数年のコロナ禍で、教育旅行がピタリとなくなりましたので、旅行会社も人員を縮小したりしており、急にコロナ禍の前のように元に戻すのは困難なのは理解しています。前述の影響で明らかに費用も値上げされていますし、添乗員などの人手不足はどの業界も変わりありません。

〇先日、文部科学省から次のような内容の文書が各学校に通達されました。要約します。

「昨今の深刻な人手不足により、修学旅行等(修学旅行、遠足、社会科の見学、移動教室などの校外で行う活動をいう。以下同じ。)が集中する時期を中心に、貸切バスや宿泊施設の手配が困難な状況になってきております。こうした状況も踏まえ、修学旅行等を円滑に計画及び実施するため、地域の実情等にも鑑み、実施時期に係る柔軟な御検討をお願いします。なお、国土交通省及び観光庁において、修学旅行等の実施時期を御検討いただく際の参考としていただけるよう、都道府県ごとの貸切バス、宿泊施設の繁閑状況をまとめたリーフレットを作成したとのことで共有がありましたので、併せてお知らせします。 ついては、都道府県・指定都市教育委員会担当課におかれては、所管の学校及び域内の市区町村教育委員会に対して、本件を周知いただくよう、よろしくお願い申し上げます。なお、貸切バスや宿泊施設の繁閑状況について御質問等がある場合は、別紙記載の国土交通省及び観光庁へお問合せいただくようお願いします。(別紙)修学旅行等の実施時期の柔軟な検討のお願いについて(依頼)

〇要するに、「まずは旅行等の実施時期を適宜ズラすなどの検討をしなさい」ということですが、すでに来年度の予定については昨年から検討を重ねてきており、大枠は決まっているので、今のこの段階では微調整の段階です。実際に6月前半に2年生の林間学校(長野県方面)、後半に3年生の修学旅行(関西方面)がすでに予定されています。

〇教育旅行自体の目的としては、「体験学習」「団体生活」「名所観光」などがありますが、その効能として「気づき」「学び」「人間関係の構築」などがあります。昔から「可愛い子には旅をさせよ」とあるように、教育旅行というカテゴリー分けをせずとも、旅そのものに教育的効果があることは私の教員としての経験からも断言できます。

〇この教育旅行の継続の危機をなんとかして脱していく手段を模索していくしかありません。

須藤昌英

1月28日(火)ハンカチと爪の点検はなんのため?

〇毎週火曜日の朝の会ではクラスの生徒を対象に、保健委員が毎日「ハンカチを持参しているか」「爪を適度に切ってあるか」を点検しています。以前のコロナ禍ではこの他にマスク点検があったり、自主的に除菌用のウエットティッシュなどを持参している生徒も多かったのを覚えています。

〇時々あすなろ学級の朝の会に同席しますが、生徒たちの点検の際、私も一緒にその2つを点検します。昔から私はハンカチを2枚(ズボンの左右のポケットに)持ってきています(1枚は手洗い用、1枚は汗ふき用です)。それを生徒たちに見せると、「へえ~」と驚かれました。何の驚きだったかはわかりませんが、生徒の反応は面白いものです。

〇ふとハンカチの語源は何だっけ?と思い調べると、「ハンカチ」は「ハンカチーフ」の略のようです。 英語ではHANDKERCHIEF( HAND+KERCHIEF)で、KERCHIEFはそれ自体が頭に巻く正方形の布のカーチフ、ネッカチーフ、ハンカチ等を意味します。

〇ハンカチの必要性として、手を洗った後の自然乾燥は不衛生と言われています。丁寧にせっかく手を洗っても、ハンカチやペパータオルなどできちんと水分をふきとらないと不衛生だということをあまり生徒は知らないようです。よく「自然乾燥だ・・」と言いながら手を振っている生徒もいます。「少なくとも友達にかからないように・・」と注意したこともあります。

〇調べてみると雑菌のついた手を石鹸で洗うと菌の数は1/100程度に減少し、その後水分や汚れをきちんとふきとるとさらに1/10程度まで減少させることができるそうです。要するに手を清潔に保つためには、洗った後にきちんと水分をふきとることが不可欠です。

〇以前に担当していた生徒の中には、友達のハンカチを借りて手を拭いている生徒もいました。人が濡れた手をふいて湿ったハンカチには、雑菌がいる可能性があります。そのように他人のハンカチを使うことはリスクを伴うので、止めるように指導したこともありました。

〇一方で爪は何の役目を果たしているか、これも普段はあまり考えません。爪点検をしても「なぜ短くしておいた方が良いか」を理解していなければ、点検のために切るというただその場限りの単純な作業になってしまい、持続性はありません。

〇私は中学生の頃の一時期、爪を噛む癖がありました。野球をしていましたので、練習でボールが指に当たり突き指や爪をはがした経験があり、定期的に爪切りを使う前に噛んでちぎっていたのでした。今考えれば不衛生極まりないですが、その頃は短くなればいい・・としか考えませんでした。私の経験からも中学生年代は、自分なりの合理性や効率性を求めます(これは立派な成長でもあります)が、周囲からみると?の場合も多いものです。

〇そもそも爪は表皮の角質が変化・硬化して出来た皮膚の付属器官で、タンパク質の一種「ケラチン」でできています。哺乳類では種によって様々な形状をとり、ヒト以外の他の動物の爪は扁爪(ひらづめ)・鉤爪(かぎづめ)・蹄(ひづめ)と、それぞれに特化しています。

〇なぜ爪があるのかというと、人間の手や足の骨は指先まで達しておらず、指先には神経が集中しているため、爪が指先を保護しています。爪があることで指先に上手く力を入れることが出来たり、指で小さい物をつまむ細かい作業もできるようになっているのです。

〇また足を使った「立つ」「歩く」などのときも、指先に力を加えてうまくバランスを取れているのは爪があるからこそで、爪は動物にとって重要な役割を果たしています。

〇爪は定期的に長さや形を整える必要があります。主な理由は3つで、1つは「ケガの防止のため(自分に対しても他人に対しても)」、2つ目には「雑菌の侵入の防止(爪と指の隙間に汚れから)」、最後は「身だしなみ・マナー(これは人によって様々)」の観点です。意外に手や爪は他人から見られているものです。

〇先日契約している生命保険の外交員さんの担当が交代するということで自宅に来ましたが、新しい若い担当の方の爪はデコレーションされており、名刺を差し出す際には自然と爪に目がいきます。人によっては「きれいですね」と話しかけてその後の会話ももりあがるでしょうが、私などは嫌悪感こそはありませんが違和感は正直ありました。私が古い感覚なのでしょうが、難しい問題です。

〇とにかく生徒たちには、健康の面からハンカチを使ったり爪の手入れをしたりして清潔感を保ってほしいと思います。

須藤昌英

 

1月27日(月)「命は時間」

〇先日の給食時の放送で、シンガーソングライターの竹内まりやさんが歌う「いのちの歌」が流れていました。この曲は竹内さんが次の世代に伝える歌として作詞したもので、生徒たちも聞いたことがあるらしく聞き入っていました。最近では卒業式でもよく歌われるそうです。
〇昭和生まれの私の世代は、竹内まりやさんや夫の山下達郎さんは共になじみの深いアーティストで、思わず口ずさんでしまう歌も多くあります。才能のある夫婦として、多くのファンがいます。
〇この歌詞には竹内さんが「生かされていることへの感謝を歌で表現したかった」と本人が語っている特別番組が数年前に放送されました。誰しも生命に限りがある、だからこそ現在を懸命に生きたいとは誰もが心の奥で願っていることだと思います。
〇Youtube動画では、竹内さん本人が「いのちの歌」を心込めて歌っています。シンプルだけど強いメッセージが伝わってきます。歌詞を紹介します。
生きてゆくことの意味問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅でめぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりもたいせつな宝物
泣きたい日もある絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて寄り添うあなたの影
二人で歌えば懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの優しいあのぬくもり
本当にだいじなものは隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中にかけがえない喜びがある
いつかは誰でもこの星にさよならを
する時が来るけれど命は継がれてゆく
生まれてきたこと育ててもらえたこと
出会ったこと笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう
〇「いのち」と聞くと、10年前に105歳でお亡くなりになった聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏の言葉を思い出します。日野原氏は、「生活習慣病」という言葉をつくり、死ぬ直前まで医師として現役を続け、予防医療や終末期医療の普及に尽くした方です。
〇それは日野原氏が若者たちに送った「命とは君たちが持っている時間である」という言葉です。日野原氏は一貫して「命の尊さ」をテーマとしてあちこちで講演されました。日野原氏の言葉を続けて引用します。
「これは難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。でも『自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん』と言ったら、全員が挙げるんです。『では命はどこにあるの』って質問すると、心臓に手を当てて『ここにあります』と答える子がいます。僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けるんです。『心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。命とは感じるもので、目には見えないんだ。君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。空気見えるの? 酸素は? 風が見えるの? でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ』と。」
○さらに「それから僕が言うのは、『命はなぜ目に見えないか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい』ということです。」
〇医師としての仕事を全うしつつ、若い人たちへのわかりやすい説明は見事としか言いようがありません。何かの機会に本校生徒にもあげたいです。
須藤昌英                   

【日野原氏の著者】